2025/04/07
日米首脳 電話会談
2025/04/06
2025/04/05
自分のペースで、前向きに学ぶ
英語は「いつかわかる」「いつかできる」というものではありません。目の前にある、具体的な小さな「わかる」「できる」を一つひとつ積み重ねて、身につけていくものです。1セクションが1レッスンに、1レッスンが1ブックに。そして、さらにもう1ブックと増やしていく。
何ごとも最初はきつく、しんどいものです。遠くから美しく見えていた山の頂も、いざ麓の登山口に立つと、その姿は見えません。たいていは、森林帯の急な登りが続き、自分がどれだけ登ったのかもわからないまま、ただひたすら歩を進めることになります。
しかし、やがて森林帯を抜けて視界が開けたとき、目指していた頂が目の前に飛び込んでくる瞬間が、必ず訪れます。
山岳ビデオを見て、登った気になっていてはいけません。自分の足でその頂に立ってこそ、次の頂への道が尾根伝いに見通せるのです。英語が、今とはまったく違って見えるその日まで―― 一歩ずつ登り続けることです。
浦和英語塾ホームページより
2025/04/04
桜の木に聴いてみなさい。(後半)
渡辺憲司著
「海を感じなさい ~次の時代を生きる君たちへ」より
松尾芭蕉の句に、次の一句がある。
命二つ中に活きたる桜かな
二十年ぶりに友人と会ったときの思いを刻んだ句だ。
命あって再会することがてきた二人の間に、
桜がいきいきと咲いている。
描写の場面としてはそんな解釈になるが、芭蕉の本意はもっと深い。
わが身の命を自分一人の命ではなく、
もう一つの命に支えられた「命二つ」としてとらえているのだ。
それを歓び、桜に重ね合わせたのだ。
命二つ。君たちは、そんな心境になったことはあるか。
親と自分。友達と自分。彼女/彼と自分。他者と自己。
それぞれが、互いの命を自分の中に抱えながら、
私たちは「命二つ」として生きているのだ。
命一つて生きていくのではない。
自分にかけがえのない命は、相手にとってもかけがえのない命だ。
「命二つ」とは、相手の心に近づき、
その心に自分を重ねること、
そうして互いの尊厳を認め合うことでもある。
わが身に宿る「他者の命」を感じなさい。
桜の幹に触れながら、想いを馳せてみなさい。
親の命を。友の命を。
やがて出会うはずの、愛する人の命を。
一生会えぬかもしれぬ、どこかに住む人の命を。
目を閉じて、桜の木に聴いてみなさい。
二つにして一つの、命のつながりを。
2025/04/03
2025/04/02
君にとっての○○は何ですか?
今あれこれ考えるより、そのちょっとの間に、腹筋とか何かしたほうがいい。
これは、シドニー五輪の女子マラソンで金メダルを獲得した高橋尚子さんの言葉です。
成績や進路への不安にとらわれ、本来やるべきことに手がつかないことはありませんか?
成績や進路への不安にとらわれ、本来やるべきことに手がつかないことはありませんか?
でも、あれこれ考えるより、その "ちょっとの間" に○○とか、何か一つでもやってみたほうがいい。今できることを、まず行動に移してみることが大切です。
君にとっての○○は何ですか?
やるべきことを着実にこなしていれば、不安が入り込む余地はありません。
君にとっての○○は何ですか?
やるべきことを着実にこなしていれば、不安が入り込む余地はありません。
逆に、不安ばかりに気を取られてしまうと、何も手につかなくなり、結果的に自分へのストレスが状況をさらに悪化させてしまいます。
「やらない自分」が、いつの間にか「できない自分」になってしまう。その現実に向き合うのが怖くて、認めたくなくて、つい逃げてしまうこともあるでしょう。
でも、基本的な生活習慣や学習習慣は、自分でコントロールするしかありません。そして、その「習慣」を甘く見てはいけません。
「まず人が習慣をつくり、そして習慣が人をつくる」。
過去は変えられませんが、「今の自分」には未来を変える力があります。
君にとっての○○とは何ですか?
君にとっての○○とは何ですか?
2025/04/01
スラスラわかる英文を
君の英語号は空に舞い上がれるか?清水かつぞー
わからない単語が一ページに十もあり、一つひとつ辞書を引く。そのあとで一生懸命にノートに日本語訳をでっちあげる。授業中に教師が言う訳を参考にして、自分の訳を訂正する。文法的な説明その他も全てノートする。家に帰って、少し復習して、それでおしまい。次の週も同じように予習して、同じように授業を受ける。
もし君が英文解釈でこのような勉強法をしていたら、残念ながら、長文を何題やろうが、何年勉強しようが、あまり実力はつかないだろう。残酷な話だが本当だ(もちろん、全然無駄とは言わない)。
それはちょうど、飛行場の滑走路をグルグル回っているジェット機のようなものだ。地面を滑走し続けるだけで、空に舞い上がることは永遠にない。
あの大きなジェット機がわずか三千メートル足らずの滑走路でどうして見事に空に舞い上がれるか、君は考えたことがあるか?原理は簡単である。脇目もふらず、まっすぐにスピードを上げて、離陸直前には時速が三百キロ以上に達するからだ。そう、ジェット機が空に飛び立つには、それなりに必要なスピードというものがあるのだ。
英語の場合もまったく事情は同じである。勉強を続けていくうちに、だんだん加速度がついてきて、どこかで飛躍がなければ、すこしも面白くないではないか。君はそうは思わないか?君は加速度を生みだすものの秘密を知りたくないか?私は自分の経験からはっきりとそれを知っている。これは本来ならば大極秘伝で、簡単に教えるのは惜しい気もするが、今日は気分がよいから、サービスしちゃおう。
それは「スラスラ感」なのである。「この英文はスラスラわかるぞ!」という感じなのである。そうなのだ。英文解釈の勉強とは、スラスラわかる英文を一つずつ作り上げていくことなのだ。
もちろん最初からスラスラわかるはずがない。辞書を引いてもよい。構文の理解も必要だろう。やりたければ日本語に訳してもよい。しかし、それで一丁終わりとしたら、ラーメン屋に入って、待つことしばし、やっとラーメンが出てきたのに、匂いを嗅ぎ、おつゆを一杯飲み、お金を払って出てくるようなものだ。
ところが、悲しいことに、ほとんどの人の英語の勉強はこのラーメンの「おつゆ一杯」だ。頭でなんとかうすぼんやりわかったくらいで一丁あがりと錯覚する。そこからさらに一歩突っ込んで「スラスラ感」の獲得まで進もうという人はまれだ。
「スラスラ感」を味わうためには、地道に音読を繰り返すという復習が欠かせない。ほとんどの生徒がそこを逃げようとする。いや、そのことに気づきもしない。教師もその点をしつこく言わない。復習は各自がやることが建前なのだ。繰り返すが、うわべの勉強を何題やっても君の英語号が空に飛び立つことはない。ところが、たった三題の長文でも、君が日本語を読むときの「スラスラ感」の半分くらいを、英語でも感じられれば、飛躍の可能性が生まれてくる。最初から量を焦ってはいけない。「スラスラ感」さえ獲得すれば、量はあとから、あっという間についてくる。
大学入試の長文読解は、最高レベルの生徒でも、せいぜい百題だ。本当に百題スラスラ読めるようになると、もう入試の英文は読みたくなくなるのだ。世の中にはもっとうんと面白い読み物がたくさんある。細切れ英文に百題以上付き合う義理はない。もちろん、私は入試の英文をたくさん読む。しかし、それは商売で、お金がもらえるからだ。おわかりだろうか。
よろしいか、最初の十題がスラスラ読めるようになるのに二百時間かかったからといって、その十倍の百題をスラスラ読めるようになるのに同じ十倍の二千時間かかるということはないのだ。
最初の一題は本当に涙が出るほどつらい。しかし、そこは覚悟を決めてクタクタになるほど復習したまえ。具体的には、テープを何十回と聞き、手で書いて単語を覚え、音読を繰り返す。文の構造が不明の所は教師にどんどん質問する。スラスラ感を追及する者の進歩は等比級数的である。二題目、三題目とだんだん楽になる。十題やりとげた人は、はっきりと、自分が正しい方向に進んでいるのを自覚できる。三十題やりとげた人は、ひょっとしたら、残り七十題は、一日二時間、一か月で終わってしまうかもしれない。Believe me.(太字は原文ママ)
故 清水かつぞー先生は、『英単語ピーナッツほどおいしいものはない」(南雲堂)の著者として知られていますが、駿台予備学校の講師時代には、毎年4月、上記のエッセーを生徒に配っていたそうです。このことは、國広正雄著『國広流 英語の話し方』(1999)にも記されています。
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