中島敦「山月記」より人生は何事をも為さぬにはあまりに長いが、何事かを為すにはあまりに短いなどと口先ばかりの警句を弄(ろう)しながら、事実は、才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭(いと)う怠惰とが己(おれ)のすべてだったのだ。己よりも遙かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者がいくらでもいるのだ。
「学習」というとどうしても、単に本を読むということのようなイメージがありますが、そうではない。出力を伴ってこそ学習になる。それは必ずしも身体そのものを動かさなくて、脳の中で入出力を繰り返してもよい。ところが、往々にして入力ばかりを意識して出力を忘れやすい。...江戸時代には、朱子学の後、陽明学が主流となった。陽明学というのは何かといえば、「知行合一」。すなわち、知ることと行うことが一致すべきだ、という考え方です。これは、「知ったことが出力されないと意味がない」という意味だと思います。これが「文武両道」の本当の意味 ではないか。文と武というものが並列していて、両方を習熟すべし、ということではない。両方がグルグル回らなくては意味が無い、学んだことと行動とが互いに影響しあわなくてはいけない、ということだと思います。
出口治明「選挙リテラシーが大切」より選挙は民主主義の根幹をなしている制度ですから、きちんと教育しないといけません。昔、北欧の友人から...次のような話を聞きました。近代国家では選挙の際にメディアが必ず「どの候補者が優勢」か事前に報じる。いいと思った場合 ...3つの方法がある。①投票所に行って、その候補者の名前を書く。②棄権する。③白票を投じる。これらは全部同じ結果となる。いやだと思ったら ...1つの方法しかない。①投票に行って、違う人の名前を書く。これが選挙です。投票に行ったところで何も変わらないという人がいますが、それは全く違うのです。投票に行かないということは棄権ではなく、優勢な候補者に票を入れたことと同じことになる。投票率が10パーセント上がるだけで当選者の顔ぶれはがらりと変わると言われています。市民のリテラシーを高めるために北欧のような実務的な教育を行うことです。
"核兵器のない世界を実現するための努力と、目撃証言を通じて、核兵器が二度と使われてはならないことを示したことに対して"
人類は創造力をもった唯一の種であるが、人類のもつ創造の手段は、個人の独自の精神と気魄だけである。ふたりの協力によって物が創造されたためしはない。 ... ひとたび創造の奇跡が起これば、集団はこれを組織だて、拡大することはできるが、集団がなにかを創造することはけっしてない。尊いのは個々の人間の独自の精神である。Our species is the only creative species, and it has only one creative instrument, the individual mind and spirit of a man. Nothing was ever created by two men. ... Once the miracle of creation has taken place, the group can build and extend it, but the group never invents anything. The preciousness lies in the lonely mind of a man.原仙作 著「英文標準問題精講」より#教養レベル 主教材
山路を登りながら、こう考えた。知に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越すことの成らぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。
速音読チャレンジ夏目漱石「草枕」冒頭より
雨ニモマケズ宮沢賢治雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ慾ハナク決シテ瞋ラズイツモシズカニワラッテヰル一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベアラユルコトヲジブンヲカンヂョウニ入レズニヨクミキキシワカリソシテワスレズ野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテ コハガラナクテモイゝトイヒ北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒヒデリノトキハナミダヲナガシサムサノナツハオロオロアルキミンナニデクノボートヨバレホメラレモセズクニモサレズサウイフモノニワタシハナリタイ
『言葉の裏にある思想を理解するには、背景に、ある程度の教養をもっていなくてはいけない。その教養は小学校時代から始まる。国語、算数、理科、社会、どんな学科にも興味を持っていた者は幸いである。ラジオ、スポーツ、映画、演劇、美術などに興味を持っていた者は幸いである。特に、新聞、雑誌、小説、論文、随筆などを熱心に読んできた者は、外国語の学習の資格をじゅうぶん備えている、と言ってよい。国語が本当にわかっていることは外国語を半分理解していることであると言っても過言ではない。個々の教養は英語の学習を能率的にする。しかし、高校上級にあっては、もはや教養目標の余分の読書はできない。各科目の学習に際して、詰めこみ、丸暗記をねらわず、真に理解し,自分自身の知識として消化することによって、それに代用させるよりしかたがない。知るを知るとし、知らざるを知らずとせよ、これ知るなり。すなわち、わからないことは一応わからないこととして、わかっていることと区別する。これが真の意味での「教養」でもあり、本当の真理探究の態度でもある。そして、真の能率を高めることになるのである。』柴田徹士『英文解釈の技術』(1960)より
We would like to express our deepest gratitude to all the crew, directors, and masters who have inherited and supported our Samurai period dramas up until now.
The passion and dreams that we have inherited from you have crossed oceans and borders.
Thank you so much.
最近のように、英語が事実上国際語としての地位を占め、その重要性が広く認められているだけでなく、実際に誰でもてがるに外国へ旅行できるし、また英語を話す外国人に接する機会も多くなると、「実用的な」英語の必要性が強調され、英文法などはもはや無用だとして、幼児が言語を習得するような過程をそのまま英語学習にも当てはめようとする傾向がある。つまり、単語や熟語さえおぼえておけば自分の思っていることがなんとか相手に通じるのだから、あとは「習うより慣れろ」だというわけである。しかし、この考え方は、つぎの二つの点を無視した一面的なとらえ方だと言わねばならない。すなわち、一つは日本人が英語を習うのであって、そこには必然的に日本語が介入せざるをえないということであり、いま一つは、幼児的な言語習得はその言語が日常的に用いられる環境を離れては成立しないし、またその環境を離れるとすぐに忘れられてしまうということである。習得された外国語は定着されなければならない。だが英米人でもなく幼児でもないわれわれに、それがどのようにして可能であるのか。その答は、理論化すること,つまり体系的な文法によることをおいて他にはない。高梨健吉著『総解英文法』2007年12月25日 第88刷発行1970年 3月 1日 第1刷発行