多読が意味を持つには、心の中から「このテキストと同じ程度なら、かなり速く読めそうだ」という予感がうまれてこないといけません。そうなるように仕向けていくのです。そのためには、一見回り道のように思えても、精読したものを、繰り返し音読して、ちゃんと身につけるという段階を踏むことです。九割以上の人は功を焦って、そのステップを省こうとします。よくにかられてと言ってもよい。案の定、そういう人は後で伸びません。私は、中学の教科書の音読を五百回などという、常識的に考えたら、壮大な無駄としか思えないようなステップをきちんと踏んだので、その後で多いなる飛躍が可能でした。國広正雄「國広流 英語の話しかた」(たちばな出版 1999)