國広正雄『國広流 英語の話し方』
(たちばな出版, 1999/12) より
歌舞伎の「浜松屋」で弁天小僧と南郷力丸を演じた二人の役者に対する辛口の論評。二十一世紀の「浜松屋」はこんなものになってしまうのだろうか。それにしても、二人とももっとはっきり型を身につけるべきである。歌舞伎は一にも二にも型であり、型をきちんと身につければ、その型によって子供の体にさえ戯曲の持つ世界が開ける。
そうするためには、百ペン型をけいこするしかない。この一見迂遠(うえん)な道がこの芸術にとっては最も近道なのである。それが中途半端なために、劇画のような生々しさと滑稽さが生まれる。
しかし、百ペン型を繰り返すためには情熱がいる。情熱を支えるのは理想である。すなわちああなりたい、ああ演じてみたい、という理想。その理想は弁天小僧を初演した五代目菊五郎の古ぼけた一枚の写真にも見ようと思えば見ることができる。
なぜ青年たちは、その理想に燃えないのか。それこそが青年の大志なはずだろう。
(渡辺保「芸新聞』一九九四年八月十八日付夕刊)