『言葉の裏にある思想を理解するには、背景に、ある程度の教養をもっていなくてはいけない。その教養は小学校時代から始まる。国語、算数、理科、社会、どんな学科にも興味を持っていた者は幸いである。ラジオ、スポーツ、映画、演劇、美術などに興味を持っていた者は幸いである。特に、新聞、雑誌、小説、論文、随筆などを熱心に読んできた者は、外国語の学習の資格をじゅうぶん備えている、と言ってよい。国語が本当にわかっていることは外国語を半分理解していることであると言っても過言ではない。個々の教養は英語の学習を能率的にする。しかし、高校上級にあっては、もはや教養目標の余分の読書はできない。各科目の学習に際して、詰めこみ、丸暗記をねらわず、真に理解し,自分自身の知識として消化することによって、それに代用させるよりしかたがない。知るを知るとし、知らざるを知らずとせよ、これ知るなり。すなわち、わからないことは一応わからないこととして、わかっていることと区別する。これが真の意味での「教養」でもあり、本当の真理探究の態度でもある。そして、真の能率を高めることになるのである。』柴田徹士『英文解釈の技術』(1960)より