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文法書にのせられている例文の多くは、われわれが英語の能力を身につけるうえに大いに有効です。いわば英語のエッセンスだからです。そして、これらの例文を覚えるにあたっては、できるだけ朗読しましょう。とにかく声に出してくりかえし声を出して読んでほしいのです。そうすれば英語のエッセンスが、自然とみなさんの体内に蓄積されていくにちがいありません。
國広正雄「英語の話し方」(サイマル出版 1984年8月 新版)より
#チャート式 基礎からの新々総合英語
多読が意味を持つには、心の中から「このテキストと同じ程度なら、かなり速く読めそうだ」という予感がうまれてこないといけません。そうなるように仕向けていくのです。そのためには、一見回り道のように思えても、精読したものを、繰り返し音読して、ちゃんと身につけるという段階を踏むことです。九割以上の人は功を焦って、そのステップを省こうとします。よくにかられてと言ってもよい。案の定、そういう人は後で伸びません。私は、中学の教科書の音読を五百回などという、常識的に考えたら、壮大な無駄としか思えないようなステップをきちんと踏んだので、その後で多いなる飛躍が可能でした。國広正雄「國広流 英語の話しかた」(たちばな出版 1999)
歌舞伎の「浜松屋」で弁天小僧と南郷力丸を演じた二人の役者に対する辛口の論評。二十一世紀の「浜松屋」はこんなものになってしまうのだろうか。それにしても、二人とももっとはっきり型を身につけるべきである。歌舞伎は一にも二にも型であり、型をきちんと身につければ、その型によって子供の体にさえ戯曲の持つ世界が開ける。
そうするためには、百ペン型をけいこするしかない。この一見迂遠(うえん)な道がこの芸術にとっては最も近道なのである。それが中途半端なために、劇画のような生々しさと滑稽さが生まれる。
しかし、百ペン型を繰り返すためには情熱がいる。情熱を支えるのは理想である。すなわちああなりたい、ああ演じてみたい、という理想。その理想は弁天小僧を初演した五代目菊五郎の古ぼけた一枚の写真にも見ようと思えば見ることができる。
なぜ青年たちは、その理想に燃えないのか。それこそが青年の大志なはずだろう。
(渡辺保「芸新聞』一九九四年八月十八日付夕刊)
中島敦「山月記」より人生は何事をも為さぬにはあまりに長いが、何事かを為すにはあまりに短いなどと口先ばかりの警句を弄(ろう)しながら、事実は、才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭(いと)う怠惰とが己(おれ)のすべてだったのだ。己よりも遙かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者がいくらでもいるのだ。
「学習」というとどうしても、単に本を読むということのようなイメージがありますが、そうではない。出力を伴ってこそ学習になる。それは必ずしも身体そのものを動かさなくて、脳の中で入出力を繰り返してもよい。ところが、往々にして入力ばかりを意識して出力を忘れやすい。...江戸時代には、朱子学の後、陽明学が主流となった。陽明学というのは何かといえば、「知行合一」。すなわち、知ることと行うことが一致すべきだ、という考え方です。これは、「知ったことが出力されないと意味がない」という意味だと思います。これが「文武両道」の本当の意味 ではないか。文と武というものが並列していて、両方を習熟すべし、ということではない。両方がグルグル回らなくては意味が無い、学んだことと行動とが互いに影響しあわなくてはいけない、ということだと思います。
出口治明「選挙リテラシーが大切」より選挙は民主主義の根幹をなしている制度ですから、きちんと教育しないといけません。昔、北欧の友人から...次のような話を聞きました。近代国家では選挙の際にメディアが必ず「どの候補者が優勢」か事前に報じる。いいと思った場合 ...3つの方法がある。①投票所に行って、その候補者の名前を書く。②棄権する。③白票を投じる。これらは全部同じ結果となる。いやだと思ったら ...1つの方法しかない。①投票に行って、違う人の名前を書く。これが選挙です。投票に行ったところで何も変わらないという人がいますが、それは全く違うのです。投票に行かないということは棄権ではなく、優勢な候補者に票を入れたことと同じことになる。投票率が10パーセント上がるだけで当選者の顔ぶれはがらりと変わると言われています。市民のリテラシーを高めるために北欧のような実務的な教育を行うことです。
"核兵器のない世界を実現するための努力と、目撃証言を通じて、核兵器が二度と使われてはならないことを示したことに対して"
人類は創造力をもった唯一の種であるが、人類のもつ創造の手段は、個人の独自の精神と気魄だけである。ふたりの協力によって物が創造されたためしはない。 ... ひとたび創造の奇跡が起これば、集団はこれを組織だて、拡大することはできるが、集団がなにかを創造することはけっしてない。尊いのは個々の人間の独自の精神である。Our species is the only creative species, and it has only one creative instrument, the individual mind and spirit of a man. Nothing was ever created by two men. ... Once the miracle of creation has taken place, the group can build and extend it, but the group never invents anything. The preciousness lies in the lonely mind of a man.原仙作 著「英文標準問題精講」より#教養レベル 主教材
山路を登りながら、こう考えた。知に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越すことの成らぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。
速音読チャレンジ夏目漱石「草枕」冒頭より
雨ニモマケズ宮沢賢治雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ慾ハナク決シテ瞋ラズイツモシズカニワラッテヰル一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベアラユルコトヲジブンヲカンヂョウニ入レズニヨクミキキシワカリソシテワスレズ野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテ コハガラナクテモイゝトイヒ北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒヒデリノトキハナミダヲナガシサムサノナツハオロオロアルキミンナニデクノボートヨバレホメラレモセズクニモサレズサウイフモノニワタシハナリタイ
『言葉の裏にある思想を理解するには、背景に、ある程度の教養をもっていなくてはいけない。その教養は小学校時代から始まる。国語、算数、理科、社会、どんな学科にも興味を持っていた者は幸いである。ラジオ、スポーツ、映画、演劇、美術などに興味を持っていた者は幸いである。特に、新聞、雑誌、小説、論文、随筆などを熱心に読んできた者は、外国語の学習の資格をじゅうぶん備えている、と言ってよい。国語が本当にわかっていることは外国語を半分理解していることであると言っても過言ではない。個々の教養は英語の学習を能率的にする。しかし、高校上級にあっては、もはや教養目標の余分の読書はできない。各科目の学習に際して、詰めこみ、丸暗記をねらわず、真に理解し,自分自身の知識として消化することによって、それに代用させるよりしかたがない。知るを知るとし、知らざるを知らずとせよ、これ知るなり。すなわち、わからないことは一応わからないこととして、わかっていることと区別する。これが真の意味での「教養」でもあり、本当の真理探究の態度でもある。そして、真の能率を高めることになるのである。』柴田徹士『英文解釈の技術』(1960)より