中学1年の1学期を終わって,英語がさっぱりわからなくなっていると,保護者の方にとっては見るに見かねてのことでした。
小学校の早い段階から学習塾に通って希望通りの中学校に合格し,それからわずか数ヶ月しか経っていないというのに,親の心配は尽きないものです。
まず授業資料を見せていただきましたが,目を疑いたくなるほど(目を覆いたくなるほど)の膨大な量の補助プリントと問題集。驚いてしまって,しばらく言葉を失ってしまいました。
大切な英語の導入期に,この量のプリントを使って,先生はいったい何を教えようとしているのか。クラス平均も60点そこそこと言っておられた。英語の何を定着させ,2学期へ,次学年へとつなげていきたいと考えておられるのか。
教科書付属のCDも薦められずに当然お持ちではない。覚えるべきとされる単語数は相当の数。音声を伴わずに文脈外で暗記した単語は,すぐに忘れ去られる運命にあるだろう。定期考査のための授業の典型例だと思った。
せっかくの中高一貫の理念は,生徒にとって生かされるものであって,経営上の大人の都合に取って代わるようなことがあってはならないのだと,多少飛躍した考えも頭の中で渦巻いた。暗澹たる思いだった。
保護者の方は入塾を促しているご様子だったが,当の本人はどうやらまだその気にはなれないらしい。無理もない。勉強に疲れてしまっているのだろう。
別の気がかりなこともある。
「英語の先生が,『うちの学校では,検定教科書(なんか)でなく,検定外の(難しい)教科書を使っているんですよ』と言ってました」と本人は言う。
その時に一瞬浮かべた,少し得意気で,まんざらでもない表情が脳裏に焼き付く。
「わかる」ことで満足を得られず,少し「わかならい」ぐらいの方が安心できてしまう。詰め込み型の勉強を強いられてきた生徒にありがちの倒錯した感情だ。
いずれにせよ,私が感じとった複雑な思いを,(保護者の方は察していらっしゃったようだが),ことさら本人に気づかれてははならない。
気を取り直して,「学校の先生はとても熱心にやっているよね。君は成績を上げて,教科書をスラスラっと読めるようになりたいんだよね。だったら,君から親にCDを買ってもらえるようにお願いをして,そのCDをよく聞いて,繰り返し繰り返し音読するといいよ。」と伝えた。
ちゃんと音読しているかな。
『時に海を見よ』(渡辺憲司著)という本があります。この本の中から一ヶ所,まだまだ至らぬ私自身が心に留めておきたい言葉を,備忘のためメモしておくことにします。
学問は,確たる自信を得ることではない。肉体には終わりがある。しかし,学ぶ姿勢に終わりはない。学ぶことの第一目的は,知識を得たその結果ではなく,知らないことを探していくことである。学び問い,未知の世界を広げるのだ。
教育とは共に学ぶことである。教えながら,同時に学ぶのである。自らが学ぶ姿勢を持ち,知識に謙虚であることは教師の必須条件である。
誤りを叱ってはならない。誤ることが次への第一歩であることを学ぶのだ。誤った者と同じ目線に立つことが,教育である。共育といってもいい。
わからないこと,決まっていないことを共に考えなければならない。