この10年で10人目の環境大臣に,何を期待できようか。
重光さんの隣に座る女性,
永野三智 @nagano_michi(水俣病センター相思社職員)さんの X の投稿より一部抜粋
環境大臣への陳情で,重光さんが水俣病で のたうち回って死んでいった妻のことを離している最中,環境省がマイクを切った ...
この50年以上,何があっても前を向き,夫婦で水俣病とたたかってきた松崎さん ... 妻の悦子さんは昨年4月に,痛みの中でのたうち回って亡くなりました。患者がどんなふうにしてしんでいくのか,国に県に市に伝えたいと,その機を待っていました。そして5月1日,環境大臣への陳情の場が設けられ,そこに,松崎さんと向かいました。
一団体3分とさだめられた,その枠を,何度も何度も練習したことすら,今では悲しく感じます。
伊藤環境大臣は5分遅れて到着。そのあいだ,穴を埋めるようにして,木村熊本県知事が,患者に名刺を渡してまわり,時間稼ぎをしました。
大臣は冒頭「現地に来て皆さんの話を聞くことができてうれしい」「一人一人の話を丁寧に聞く」と言いました。一人ひとり,言葉を述べます。
3分が経ったとき,マイクがプツリと切れました。次の人のときも そうでした。私は何が起きているのか分かりませんでした。
そして重光さんがどんな思いで連れ合いであり戦友であった悦子さんを亡くされたかを訴えました。...
我々は毒と知らずに魚を目いっぱい獲って市場に卸し,魚は熊本県中に売られていった。水銀漬けの魚を食べるだけ食べて,水銀で全身焼けきった。悦子が痛いよ,痛いよと のたうち回っても,私は何もしてやれなかった。海に生まれ,海に生き,その海で苦しみながら,浄土へ行った,と言っている途中で 環境省は「3分です」と言って,マイクのスイッチを切りました。
松崎さんは絶句しました。その顔が,今も頭から離れません。私は重光さんからマイクを受け取って,叩いてみてオフになっていることがわかりました。
「マイクはないけど最後までしゃべっていいんですよ」と言って,重光さんは,「あなた方にとっては,たいしたことではないのでしょう。でもね,患者はみんなこうやって死んでいく。腹が立つを通り越して,情けがない。自民党の皆さんは私らを棄てることばかり考えず,我々を見て,償う道を考えてください」と言ったけど,その声は大臣に届かず中に浮きました。
たった,それだけの言葉です。1970年代はじめから,重光さんと悦子さんは戦い続けてきました。ともに闘ってきた同志を亡くし,悲しみに打ちひしがれている重光さんの痛みを,3分経ったからマイクを切る,という対応。時間ですと言われた瞬間の,重光さんの絶句の顔が頭から離れません。
全員が話を終える間際に,後ろの官僚が次々と手渡したメモ。伊藤環境大臣は「胸が締め付けられる思いです」と言いながら,そのメモを数秒凝視し,話し始めた言葉があんなに空虚だったのは,彼自身の言葉ではなかったからでしょう。
環境省の職員はマイクを切ったことを「不手際だった」といい,環境大臣は「マイクを切ったという認識はない」と言いました。「認識はない」と聞いて,あぁこの方は,重光さんの話を聞いていなかったんだと,それで私は気がつきました。...
以上
大臣次第で,司会をしていた国家公務員の姿勢・態度も変わるのです。