2018/09/08

君の英語号は空に舞い上がれるか?

『英単語ピーナッツほどおいしいものはない』(南雲堂)の著者で予備校講師,故清水かつぞー先生は,『君の英語号は空に舞い上がれるか?』と題するプリントを,年度初めに予備校の担当生徒に渡していました。


『君の英語号は空に舞い上がれるか?』

わからない単語が一ページに十もあり,一つひとつ辞書を引く。そのあとで一生懸命にノートに日本語訳をでっちあげる。授業中に教師が言う訳を参考にして,自分の訳を訂正する。文法的な説明その他も全てノートする。家に帰って,少し復習して,それでおしまい。

もし君が英文解釈でこのような勉強法をしていたら,残念ながら長文を何題やろうが何年勉強しようが、あまり実力はつかないだろう。残酷な話だが本当だ(もちろん,全然無駄とは言わない)。

それはちょうど,飛行場の滑走路をグルグル回っているジェット機のようなものだ。地面を滑走し続けるだけで,空に舞い上がることは永遠にない。あの大きなジェット機がわずか三千メートル足らずの滑走路でどうして見事に空に舞い上がれるか,君は考えたことがあるか?

原理は簡単である。脇目もふらず,まっすぐにスピードを上げて,離陸直前には時速が三百キロ以上に達するからだ。そう,ジェット機が空に飛び立つのは,それなりに必要なスピードというものがあるのだ。

英語の場合もまったく事情は同じである。勉強を続けていくうちに,だんだん加速度がついてきて,どこかで飛躍がなければすこしも面白くないではないか。君はそうは思わないか?

君は加速度を生みだすものの秘密を知りたくないか?私は自分の経験から,はっきりとそれを知っている。これは本来ならば大極秘伝で,簡単に教えるのは惜しい気もするが,今日は気分が良いから,サービスしちゃおう。

それは「スラスラ感」なのである。「この英文はスラスラわかるぞ!」という感じなのである。そうなのだ。英文解釈の勉強とは,スラスラわかる英文を一つずつ作り上げていくことなのだ。

もちろん最初からスラスラわかるはずはない。このスラスラ感を味わうためには,単語の意味や構文の理解も必要だろう。やりたければ日本語に訳してもよい。

しかし,それで一丁終わりとしたら,ラーメン屋に入って,待つことしばし,やっとラーメンが出てきたのに,匂いを嗅ぎ,おつゆを一杯飲み,お金を払って出てくるようなものだ。

ところが,悲しいことに,ほとんどの人の英語の勉強はこのラーメンの「おつゆ一杯」だ。頭でなんとかうすぼんやりわかったくらいで一丁あがりと錯覚する。

そこからさらに一歩突っ込んで「スラスラ感」の獲得まで進もうという人はまれだ。

「スラスラ感」を味わうためには,地道に音読を繰り返すという復習が欠かせない。ほとんどの生徒がそこから逃げようとする。いや,そのことに気づきもしない。教師もその点をしつこく言わない。

復習は各自がやることが建前なのだ。繰り返すが,うわべの勉強を何題やっても君の英語号が空に飛び立つことはない。

ところが,たった三題の長文でも,君が日本語を読むときの「スラスラ感」の半分くらいを英語でも感じることができれば,飛躍の可能性が生まれてくる。

最初から量を焦ってはいけない。「スラスラ感」さえ獲得すれば,量はあとから,あっという間についてくる。

大学入試の長文読解は,最高レベルの生徒でもせいぜい百題だ。本当に百題スラスラ読めるようになると,もう入試の英文は読みたくなくなるのだ。世の中にはもっとうんと面白い読み物がたくさんある。細切れ英文に百題以上付き合う義理はない。

もちろん,私は入試の英文をたくさん読む。しかし,それは商売で,お金がもらえるからだ。おわかりだろうか。

よろしいか,最初の十題がスラスラ読めるようになるのに二百時間掛かったからといって,その十倍の百題をスラスラ読めるようになるのに同じように二千時間掛かるということはないのだ。

最初の一題は本当に涙が出るほどつらい。しかし,そこは覚悟を決めてクタクタになるほど復習したまえ。具体的にはテープを何十回と聞き,手で書いて単語を覚え,音読を繰り返す。文の構造が不明のところは教師にどんどん質問する。

スラスラ感を追及する者の進歩は等比級数的である。二題目,三題目とだんだん楽になる。十題やりとげた人ははっきりと,自分が正しい方向に進んでいるのを自覚できる。

三十題やりとげた人は,ひょっとしたら,残り七十題は,一日二時間,一か月で終わってしまうかもしれない。

Believe me.





これまでは一般的に,英文理解が学習の目標であって,音読はその「復習」と考えらえられてきましたが,これからは,スラスラ音読できることを目標とし,英文理解はそのための「準備」と考えてみる,こうした発想の転換が必要だと思います。

いくら音楽理論を研究したとしても,実際にピアノに向かって練習しない限り,弾けるようにはなりません。逆に,いくら自己流の感覚だけに頼って弾き続けたとしても,譜読みの知識なしでは,初見でピアノを弾きこなすことなどできません。

要は,「語学は理屈が半分,慣れが半分」,「頭で理解し,身体で覚えよ」に対する自覚だと思うのです。